昭和43年11月21日 夜の御理解
                          末永静行(№43-183)


四度の月次祭引き続いてこの頃からの初代三十五年の式念祭の委員会がでておりましたから、最後の委員会があると言うので御案内を頂いておりましたが、私はまたお金が足りなかったから、(            )と思うて、(       )いったところが、もう予想に反してからお金が少したまりましてからですね、その事が発表されたわけでございます。
そして、その残ったわずかばかりの五、六万余りの金が余っておりましたからそれをどう使うかという事に話がいろいろされまして、善導寺のもう親先生の念願であるところのあそこの御造営新築を思い立たれる、まあ、言うなら、火種にしようと言う事に皆、皆といっても私と北野のと、それから岸先生と(       )それに女(           )それが、そう言う事にまあ決まりました、改めてまたそのことに対する、委員会が出来ると言うところが話がいったんです、大変先生も喜び機嫌ようしておられましたけれども、実は私はもうお届けせなんならんと思いながら、もう、いよいよギリギリ切羽詰っておる事でございますので、お届け、今日こそお届けさせて頂こうと思いよった事があるんです、ところが、その、そのお届けをすると親先生は必ず気分悪うしなさる事なんですよ、ですから、私、あの、お届け今日はさせて頂かんならんと思っとりましたけれども、親先生がそんな事であまり機嫌ようしておられますから、まあ、普通から言うと先生が機嫌の時にお届けしたほうがまあ確かに、まあ、スムーズに、それはお届けのその思いかもしれませんよね、けれども私、せっかく、あの、親先生が機嫌ようしとんなさるとにお届けをして機嫌を悪うしてはあいすまんと思うてから今日はそれを止めましたから、もう心の中に、とにかくあの充実感と言うんですかね、喜びが一杯でその事なんかはもうどうでもいいというような感じがするんですよね、信心と言うのは本当に、例えば相手が機嫌ようしちゃるけん、機嫌の良か時にの事を頼もうとか願おうとか言うんじゃなくて、そのことを、いや、確かに顔色が分かるぐらいな気分が悪うなさるという事だけは間違いがないのですけれども、お届けをしなればならない事なんですけれども、それは私は親先生の気分を壊して、本当に喜びなさるとにとこう思いましたら、そう言うようなことがこう、なんと言うんですかね、神心と言うんじゃなかろうかと私は思うたんですけどね。
ですから、その、そしてなら自分が後にですたい、とうとう今日もまたお届けしいそびれたといったようなものではなくてから、そげなんと帰って話してきた事ですけれども、お父さんがこげなん気持ちになる、これだけでんおかげを頂くよねち言うたち言うてから、まあ、話してきたことでございます。
ですから、本当に自分の心と言うのが自分だけを中心ではなくてから、いつも相手、しかもそれが、相手が気分がいいけん、ね、例えば、言うなら、ね、親にお金をせびる時に機嫌のようしておる時に言うたら確かにもらえますよね、けれども、まあ、いんや出来ません、ただもらうという事においては、その、こちらのいいを得る事になりましょうけれども、相手のせっかくのその気分が少しでもそれで曇ると言うようなことを、そう言うところを漬け込むと言うようなことは私は信心じゃないと言うふうに感じたんですよね、それが何とはなしに神様の心に通うたと言う感じたしたんですけれども。
お互い、日々信心の稽古をさせていただいておるという事は自分の心の中にどれだけ神心が育って行きよるかという事なんですから、そう言う時に確かめ、確かめして行かなければいけない。
今日の、さっき新聞が、今日の昼の新聞を見ておりませんでしたから帰ってから見せて頂きましたら、今日は、予想外の事だと言うような、例えば私はお金が足りない事だと思いよった、ところが反対な事を実に予想外のことでしたけどね、そげなん事が書いてあった、もう本当に神様が私の心も知っておいでられますけれども、その知っておられる心が神様の思い以上にさっさと切り替えられたり、変えて行かれるところに神様の心にぐいぐい入って行くものがあるように思うんです、ね。
                     どうぞ。